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  1,本居 宣長(もとおりのりなが  1730〜1801)

    江戸時代中・後期の国学者。現存する日本最古の歴史書『古
  事記』を研究し、35年の歳月をかけて、その注訳書『古事記伝』
  44巻を完成させた。

   本居宣長は享保15年(1730)伊勢国松阪本町の小津定利
  の長男として生まれた。小津家は江戸に店をもつ木綿商であっ
  たが、宣長が家督を継ぐ頃には店は窮地に陥り、ついには破
  産してしまう。
    宝暦2年(1752)23歳の宣長は、母の志を受け、医学を修
  めるために京都に入り、儒学者・堀景山より漢籍を、針灸のの
  大家・堀元厚に医書を、高名なな小児科医・武川幸順に医術を
  学ぶ。
   28歳で帰郷して、町医を開業して生計を立てながら『源氏物
  語』などの日本の古典の研究を続けた。
    宝暦13年(1763)松阪日野町の旅館「新上屋」に宿泊中の
  賀茂真淵(かものまぶち)に対面し、古事記研究の志を告げた。
  これが「松阪の一夜」として知られるもので、その年の末に真淵
  の門人となった。


本居宣長

(本居宣長記念館所蔵)
  
   翌明和元年(1764)宣長35歳のとき、712年に書かれた日本最古の歴史書『古事記』の研
  究に着手し、35年の歳月を費やして大著『古事記伝』全44冊を完成させた。享和元年
  (1801)72歳で生涯を閉じた宣長は、遺言により山室山の奥墓に葬られた。


  2、松浦 武四郎(まつうらたけしろう  1818〜1888)


    幕末から明治維新にかけて活躍した探検家で、地誌学者・
  民族学者・考古学者・作家・画家・旅行家・詩人などの数多くの
  顔をもつ北海道の名付け親。

    武四郎は文化15年(1818)松浦桂介の四男として、伊勢国
  一志郡須川村(現在の松阪市小野江町)に生まれた。若くして
  郷里をあとにして諸国を遍歴していた武四郎は長崎でロシア南
  下による蝦夷(エゾ)地の危機を知り、憂国の思いで蝦夷地の探
  検に乗り出すのであった。

    弘化2年(1845)28歳の武四郎は初めて蝦夷地に渡り、以
  後6回に及ぶ調査を案内役のアイヌの人々と寝食をともにして
  行った。 当時のアイヌの人々は、松前藩の役人と請負人と呼
  ばれる人たちによって、ひどい扱いを受けて、死に追いやれて
  いる悲惨な状態でした。現状を知った武四郎は『戊午(ぼご)日
  誌』や『近世蝦夷人物誌』などの中でアイヌ救済を訴えている。

松浦武四郎
(松浦武四郎記念館所蔵)
    安政2年(1855)武四郎37歳の時、幕府の役人として更に蝦夷地を調査し、「東西蝦夷山
 川地理取調図」28冊等を刊行する。明治時代になってからも箱館府開拓使の開拓判官という
 役職につき、道名、国名、郡名の撰定などを手がけた。晩年の68歳から大台ヶ原に三度登り
 開拓を唱え、明治21年2月10日、東京の自宅で71歳の生涯を終えた。


  3、蒲生 氏郷(がもううじさと  1556〜1595)

    安土桃山時代の戦国武将で織田信長・豊臣秀吉に仕え、近
  江国日野城主から伊勢国松坂に移り松坂城を築城し、「松阪開
  府の祖」と称される。後に陸奥国黒川城主となった。

    蒲生氏郷は弘治2年(1556)、近江国日野六万石城主蒲生
  賢秀の嫡男として生まれた。永禄11年(1568)蒲生賢秀は織
  田信長に降り、氏郷(幼名鶴千代)は13才の時、織田信長の人
  質として岐阜城に入った。氏郷は信長にその非凡な才能を買わ
  れて翌永禄12年に信長の次女冬姫と結婚し、若年ながら武将
  の列に加えられた。信長の大河内城攻めには14歳で初陣をし
  ている。

    信長の死後、秀吉のもとで小牧・長久手の戦いなどで活躍
  し、伊勢国松ヶ島12万石を与えられ、天正16年(1588)に四
  五百の森に松坂城を築いた。
   

蒲生氏郷

    松坂城に入った氏郷は日野商人を松阪に招き、楽市楽座、街道の整備、など画期的な政策
  で松阪発展の礎を築いた。しかし氏郷は松坂城に入って2年後の天正18年(1590)小田原
  討伐の功で会津42万石(後に92万石に加増)を拝領となり黒川城(後の鶴ヶ城)に入った。

    氏郷は戦のときは軍の先頭に立って敵に突入する勇猛な武将であるとともに、和歌や宗教
  を理解し、茶道では千利休七哲の筆頭にあげられる文化人でもあった。文禄4年(1595)伏
  見の蒲生屋敷で40才の若さで死去。辞世の句は「限りあれば吹かねど花は散るものを心みじ
  かき春の山風」。


  4、三井 高利(みついたかとし  1622〜1694)

    三井高利は江戸時代の商人で後の三越となる越後屋を江
  戸に開店し、三井財閥の基礎を築き、三井中興の祖といわれ
  ている。

    三井高利は元和8年(1622)、伊勢国松坂本町(現在の松
  阪市本町)に三井高俊の四男として生まれた。14歳の時、江
  戸に出て兄の店を手伝うが、28歳で松阪に戻り両替商を営み
  ながら江戸で店を持つための資金蓄積に励んだ。
  
    延宝元年(1673)52歳になった高利は京都に呉服仕入店
  越後屋を開くとともに、江戸本町に間口9尺(2.7m)の小さな
  「三井越後屋」を開店した。それから10年後には駿河町に
  大店を構え、さらに4年後には幕府御用達に加えられた。
   


三井高利
(三井文庫所蔵)

    当時の呉服屋は得意先を回って注文をとり、後で品物を届け、代金を後でまとめて集金する
  盆暮勘定が普通であったが、越後屋は「現金掛け値なし」という看板を掲げ、今日の店頭販売
  を始めた。また一反売りが普通であったのを、客の注文に応じ切り売りもした。このような当時
  としては画期的な商法は江戸庶民の間で爆発的な人気を博した。

    元禄7年(1694)73歳で亡くなるまでのわずか21年間に総資産7万2千両ほど(1両=10
  万円として72億円)の富を得て、後の三井財閥の基礎を築いた。



  5、大谷 嘉兵衛(おおたにかへい  1844〜1919)

    江戸時代後期に生まれ、明治・大正・昭和と茶業の発展に尽
  くした実業家で、「茶聖」あるいは「茶王」と呼ばれ、貴族院議員
  として国政にも参画した。

    大谷嘉兵衛は弘化元年(1844)12月22日伊勢国飯高郷谷
  野村(現在の松阪市飯高町宮本)に大谷吉兵衛の4男として生
  まれた。8歳の時から5年間、長楽寺の住職に読み書きそろば
  んを習い、13才からは、家業の農業を手伝いながら独学で書
  に親しんだ。

    文久2年(1862)嘉兵衛19歳のとき、横浜で製茶売込問屋
  を営む親戚の伊勢屋に奉公。その後慶応3年(1867)スミ
  ス・べーカー商会に雇われ大阪で商才を発揮する。明治元年
  (1868)大阪から横浜に帰った25歳の嘉兵衛はスミス・べーカ
  ー商会に在籍のまま製茶売込業を開いた。


    しかし茶の製品が粗悪となってきたため、品質向上の必要に
  せまわれ、明治12年横浜で第1回製茶共進会を開催し、審査
  長を務めた。

長楽寺にある
大谷嘉兵衛像

    また製茶の輸出にも力を入れ、明治24年(1891)48歳で全国茶業組合中央会議所の議長
  になった。明治22年(1889)の横浜市議会議員を皮切りに、神奈川県議会議員、貴族院議員
  を歴任し、昭和8年(1933)2月3日横浜で没す。享年90歳であった。



  6、小津 安二郎(おづやすじろう  1903〜1963)

    日本を代表する映画監督・小津安二郎は多感な青年期を松
  阪で過ごした。安二郎は家の近くにあった「神楽座」という映画
  館に通い続けたことが彼の生涯を決定づけた。

    明治36年(1903)12月12日、東京深川区(江東区)に生まれ
  海産肥料問屋湯浅屋の番頭だった父虎之助と母あさゑのもと
  で育てられた。

    安二郎が小学四年生のとき子どもは郷里で育てたいという
  父親の方針で、松阪市に移り住んだ。松阪市立第二尋常小学
  校、宇治山田中学校(現宇治山田高校)入学し19歳までの思
  春期を松阪で過ごした。
  
小津安二郎青春館
     旧制中学時代は彼の家の近くにあった神楽座という映画館に通い続け、この時に見た映画の
  影響で、映画の道を志す。大正12年(1923)東京に戻った安二郎は親戚のつてで松竹蒲田撮影
  所に入社、大久保忠素に私事した。昭和2年(1927)の『懺悔の刃』で初監督を務めて以降、「大
  学は出たけれども」、「晩秋」、「東京物語」、「秋刀魚の味」など生涯に54本の映画の監督を務め
  た。昭和22年(1947)に松阪を訪れた安二郎は神楽座の前で「もし、この小屋がなかったら、僕は
  映画監督になっていなかった」と語った。

    昭和38年(1963)の誕生日に60歳で逝去し、北鎌倉の円覚寺に眠る。松阪市愛宕町の安二
  郎の住居跡に、彼のゆかりの品物や写真を展示する小津安二郎青春館が開設されている。



  7、竹川 竹斎(たけがわちくさい  1809〜1882)

    竹川竹斎は江戸時代後期から明治維新の時代に、勝海舟、
   山岡鉄舟らと交流をもち、農民救済のために溜池を造ったり
   人材育成のため「射和文庫」を設立した篤志家。

     竹川竹斎は文化6年(1809)伊勢国飯野郡射和村(現在
   の松阪市射和町)の豪商竹川家の分家、東竹川家の6代当
   主竹川政信の嫡男として生まれた。父政信は本居宣長の門
   人、母菅は国学者賀茂真淵の門人荒木田久老の娘で、教育
   的・文化的環境は恵まれていた。

     12歳で江戸に出て両替店で商いの修行をしたが、この時
   の6年間に和漢古今の書、千巻を読破したという。
     文政12年(1829)、21歳で家督を継いだ竹斎は家業の
   傍ら農業土木や天文・地理・測量などを学び、農民救済のた
   め溜池の築造や桑・茶園の開発もすすめ、人材育成のため
   の「射和文庫」を設立、安政3年(1856)には射和萬古を興す

   ど、郷土のための事業を行った。 なかでも射和文庫は当時1
   万冊の蔵書があり、日本の私設図書館の草分けというべきも
   のである。
 
        
      竹川 竹斎
      (竹川家所蔵)
 
     著書に「海防護国論」「浮宝の日記」等がある。明治15年
   (1882)74歳で没する。


  8、大淀 三千風(おおよどみちかぜ 1639〜1707)

    大淀三千風は江戸時代前期、松尾芭蕉と並び称された射
  和出身の俳人で、41歳の時一昼夜に三千句を詠んだことか
  ら、それ以後「三千風」を名乗る。

    三千風は寛永16年(1639)、伊勢国飯野郡射和村(現在
  の松阪市射和町)の商家・三井家に生まれた。父は作右衛門。
  名前は友翰(ゆうかん)といった。幼年時代、射和の蓮生寺の
  住職祐順法印に読み書きそろばんはもとより、儒学、仏教、神
  道などに興味をもって学び俳諧を志す。

    三千風は西行や宗祇にあこがれ、全国行脚の旅にでる計画
  を立てるが、彼の家は商家であり、彼の商人としての才能を高
  くかっていた両親に反対され実現することはできなかった。
   
 大淀三千風
(本居宣長記念館所蔵)

     しかし両親が亡くなり、店の跡取りができた寛文9年(1669)31歳の秋、姓を大淀(おおよど)と
  改め俳諧師として奥州の松島(宮城県)へ旅立った。松島にしばらく滞在したあと、仙台に移り、ここ
  で15年もの間俳人として過ごした。この仙台在住の延宝7年(1679)、41歳の三千風は当時流行
  の俳諧ゲーム「大矢数(おおやかず)」に挑戦、一昼夜に3000句という記録を樹立し、三千風の名
  は全国に知られるようになった。これを機会に名を大淀三千風と改めた。

    天和3年(1683)4月、49歳になった三千風は仙台を後にして全国行脚の旅にでた。宝永4年
  (1707)1月8日郷土射和で69歳の生涯を終えた。辞世の句は「名聞のゝ里も継目もやれ紙子をと
  の嵐乃庭濃ち梨津可(名聞ののりも継目もやれ紙子(かみこ)音の嵐の庭のちり塚)」



  9、伊勢北畠氏(いせきたばたけし)

    北畠氏は62代村上天皇の流れをくむ、村上源氏の一族で、
  北畠4代目親房(ちかふさ)の子顕能(あきよし)が伊勢国司を
  任じられ、伊勢の北畠が始まった。以後織田信長に滅ぼされ
  るまで230余年に渡って伊勢地方に君臨した。

    北畠親房は「大日本は神国なり」で始まる「神皇正統記(じん
  のうしょうとうき)」の著者で、建武3年(1336年)南北朝の対立
  が始まると、伊勢を戦略上重要な地と位置づけ南朝側の拠点と
  して田丸城を築き、ここを中心として神山城など南伊勢にいくつ
  かの城を築いていった。

    親房の三男顕能(生没年不詳)が延元3年(1338)7月に伊
  勢の国司を任じられると、一志郡多気に本拠を構え、国司家と
  して南伊勢を支配していった。北畠が統治していたのは南勢五
  郡(一志郡、飯南郡、飯野郡、度会郡、多気郡)を本拠地とし、
  伊賀の半国(名張)、大和の宇陀郡、さらに志摩・熊野まで勢力
  を伸ばしていった。


北畠氏の居城
大河内城跡

    その後南伊勢では北畠を中心として多くの戦いが行われた。延元4年(1339)以降の田丸
  城や神山城などにおける南北朝の戦い。応永22年(1415)の阿坂城(白米城)における足利
  幕府軍との戦い。そして北畠具教が城主の永禄12(1569)の大河内城や阿坂城における織
  田信長軍との戦いのあと、滅亡への道を歩むことになった。



   10、東畑 精一(とうばたせいいち 1899〜1983)


     昭和期の国際農業学者、経済学者で近代日本の農業経済学の基礎をつくった。吉田第一次内閣
   では吉田茂自身から農相就任を強く要請され、これを固辞するも戦後の日本の農政に重要な役割を
   果たした。

     東畑精一は明治32年(1899)三重県一志郡豊地村(現在の松阪市)の地主の家に生まれた。三
   重県立第一中学から第八高等学校を経て、大正11年(1922)に東京帝国大学農学部第二部(農業
   経済学科)を卒業した。

     昭和元年(1926)より5年間アメリカ・ドイツに留学し、ボンでシュンペーター(オーストリア出身のア
   メリカ経済学者、日本では東畑のほか中山伊知郎や竹中平蔵など多くの人が影響を受けている)に師
   事した。

     帰国後は東京大学助教授、教授となり、農業経済学の大系化に務めた。また政界、財界とのつな
   がりも深く米価審議会議長、国際食糧農業機構主席代表、税制調査会会長、農林漁業基本問題調
   査会会長など各種審議会などの議長や座長を務め、農業基本法の制定にも大きな役割を果たした。

     昭和43年(1968)にはアジア・アフリカなどの新興独立国への「農業の近代化に対する顕著なる
   貢献」をもってマグサイサイ賞(アジアのノーベル賞とも言われ、フィリピンマニラ市のラモン・マグサ
   イサイ賞財団により贈られる賞)を受賞し、昭和55年(1980)には文化勲章を受章した。昭和58年
   (1983)5月6日、84歳で亡くなる。


  11、原田二郎(はらだじろう 1849〜1930)

    原田二郎は江戸時代末期に生まれ、明治・大正・昭和の時
  代に活躍した実業家で、31歳で第74国立銀行(後の横浜銀
  行)の頭取になり、鴻池銀行の再建にも当たった。また晩年自
  らの財産を投げ出して原田積善会を設立した。

    原田二郎は嘉永2年(1849)伊勢国松坂殿町の紀州藩同
  心原田清一郎と母時雨子の長男として生まれた。幼名は徳松。
  幼年時代は腕白小僧で界隈のガキ大将であっ た二郎は、近
  所の寺子屋で算術・習字を、藩経営の学問所で漢学・国学・棒
  術を習った。

    明治維新後の明治2年(1869)、21歳の時、松阪出身の勤
  王志士世古延世(せこのぶつぐ)に随行し京都に入り、さらに23
  歳の時、東京に出て英語と医術を学んだ。
   

    その後大蔵省に勤め、31歳で横浜の第74国立銀行の頭取となり、明治35年、54歳の時に大
  阪の鴻池銀行(後の三和銀行)の立て直しに当たった。

    大正9年(1920)積年の計画であった原田積善会を設立した。その基金は生涯にわたって倹
  約貯蓄し、運用して得た全財産1020万円(現在の貨幣価値では百数十億円)であった。この財
  団より三重県及び松阪市にも現在の貨幣価値で約10億円が助成されている。

    昭和5年、東京麻布区市兵衛町の本邸で82歳の生涯を終えた。墓は郷土松阪の原田家の菩
  提所樹敬寺にある。


 12、韓天寿(かんてんじゅ 1727〜1795


   韓天寿は江戸時代中期の画家。画・篆刻も巧みであった。また書の手本である法帖の刊行を手が
 け、中国から渡来した法帖を私財を投じて集め、その覆刻に努力した。同時代の文人画家池大雅(い
 けのたいが)や、儒学者で篆刻家、画家の高芙蓉(こうふよう)と交流があった。

   天寿は享保12年(1727)京都の青木市郎右衛門の次男として生まれた。本姓は青木、名は天寿
  (たかかずと読んだらしい)。年次は不祥であるが伊勢松坂中町の両替商田丸屋中川精三郎の娘と
 結婚し、中川精三郎を継ぎ、後に長四郎と改める。
  姓の「韓」は青木家の祖が百済の馬韓余璋王(ばかんよしょうおう)の後裔であると伝えるところから
 とった。この命名は射和村の竹川竹斎の祖父の兄である。

  33歳で家督を継ぐが、その翌年には友人の池大雅や高芙蓉と白山、立山、浅間山、富士山などをめ
 ぐり「三岳道者」と称する交流を続けた。40歳頃には二王(王義之、王献之)の書の研究に没頭した。
 彼の大きな功績の一つが法帖の刊行である。中国から渡来した法帖を私財を投じて集め、その覆刻に
 努力した。特に法帖出版の新しい技術を開発したことは特筆すべきであるが、その技術は伝えることを
 惜しんだため、後世に伝わっていない。

  天寿の書風は唐様、画は漢画を得意とした。宣長と天寿は友人で、合作の画賛なども伝わっており、
 天寿が描いた漢画の山水画に宣長が和歌を賛したものもある。 天寿は寛政7年(1795)3月23日没
 した。享年69歳。墓は篠田山霊園清光寺墓地にある。


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