9、松ヶ島城跡


 
○あらまし
 松ヶ島はかつて保留久美(細汲・細首・細頸とも書く)と呼ばれ、参宮古
道に沿った、海陸交通の要衝であった。松ヶ島城は三渡川の左岸の海岸
線から東へ500mほどの所にある通称「天守山」が本丸天守閣跡と考え
られている。周囲には他に城の面影を残すものはないが、現在の松阪市
松ヶ島町には、城の周辺に付けられた地名が多く残る。

○最初の築城                            
 永禄10年(1567)年ごろ北畠具教(とものり)は織田信長の南伊勢侵攻
に備え、細首(後の松ヶ島)に細首城を築城して家臣の日置大膳亮をすえ
た。同12年、織田信長の伊勢来攻が迫ったため、日置は自ら城を焼き廃
城として大河内城に籠もった。
  


        松ヶ島城跡


○北畠信雄の築城
 大河内城の攻防の後、永禄12年(1569)北畠と織田で和議が成立し、北畠に養子に入った織田信長の次男信雄(のぶかつ)は田丸城を居城としていたが、天正8年(1580)田丸城が放火のため焼失したので、細首城を大改修し、松ヶ島城と改称して入城した。この時の松ヶ島城は本丸、二の丸を堀が囲み、本丸には五層の天主をそなえた堂々たる平城であった。
 天守山あたりから金箔の残る古瓦片が出土するが、金箔瓦が発見される城跡は全国的にも少なく、安土城、岐阜城、清洲城、松ヶ島城、神戸城で信長とその息子たちの城郭であり、信長が金箔瓦を親族で独占し、威厳を示す道具として利用していたことが推測できる。
 天正10年(1582)信長が本能寺の変で倒れると、信雄は伊勢の統治と松ヶ島城を家臣の津川玄蕃允に任せ、尾張の清洲城に移った。その後信雄と羽柴秀吉が対立し、津川玄蕃は信雄に謀殺され、代わって滝川三郎兵衛尉雄利(かつとし)が城に入った。

○松ヶ島城の合戦
 天正12年(1584)羽柴秀吉と織田信長の次男信雄とが不仲となり、信雄は徳川家康と結び小牧長久手の戦いが起こった。この時伊勢も戦場となり松ヶ島城の合戦が起こったのである。小牧長久手の戦い同様松ヶ島城の戦いも、実質秀吉と家康の戦いであった。
 織田・徳川の拠点松ヶ島城を守るは滝川雄利、日置大膳亮(ひおきだいぜんのすけ)、そして家康よりの伊賀鉄砲隊、服部半蔵率いる伊賀、甲賀の武士など三千余兵であった。
一方攻める秀吉軍は秀吉の弟の大和大納言秀長を総大将に筒井順慶(じゅんけい)、織田信包(のぶかね、信長の弟、津城・長野宗家)、田丸具直(ともなお)、秀長家来の藤堂高虎、蒲生氏郷軍の坂源左衛門などが陸から遠巻きにして、海からは鳥羽城主・九鬼嘉隆が攻めたて海上封鎖をした。この時の軍勢は2万。
 合戦の火ぶたをきったのは秀長軍の大和・伊賀を領有する筒井順慶であった。これを日置の武士井田勝蔵が追い散らした。この後織田信包が町に火を放つと、その火が城に迫り、天主も焼けてしまうのではないかと思われたとき、滝川の家臣の中津志摩助が命がけで天主に駆け上がり、火を消し止めた。この勇気には敵・見方とも拍手をおくったと伝えられている。この戦は40日の攻防にもかかわらず、松ヶ島城は落城しなかった。
 この戦を終結に導いたのは慶宝という一人の若い尼僧であった。慶宝は三雲の星合城主の一族、星合仁左右衛門の娘で、嫁ぎ先の夫が戦死したため、御霊を弔うために仏門にはいっていたのであった。この戦で多くの兵が死んでいくのを見るにしのびがたく、攻撃側の秀長に訴えた。この時慶宝は17歳であった。秀長は慶宝の訴えを受け入れ、話し合いで決着をつけることとなり、慶宝が使者となり、松ヶ島城は開城された。城をあけた松ヶ島城の武将たちはそれぞれの土地におもむき、新しい道を求めた。



○蒲生氏郷の入城
 蒲生氏郷は小牧長久手の戦い、松ヶ島城の戦いでは兵を二分し、自らは小牧の戦いに参加し、松ヶ島城の戦いでは家臣の坂源左衛門に任せた。
 これら小牧長久手の戦いなどで功績をあげた氏郷は、同天正12年(1584)6月秀吉から松ヶ島城を与えられ、日野6万石から29歳の若さで、松ヶ島12万石の大名になったのである。

○松ヶ島城の廃城
 松ヶ島城に入った氏郷であったが、城が狭く、海岸に近かったため、これ以上の発展は望めないと判断し天正16年(1588)四五百森に松坂城を築城した。
松坂城の築城にあたって、松ヶ島城の木材、石、瓦等の資材を再利用したり、領内の農漁民を除く町民や寺社は強制的に松坂城下に移住させられ、また松ヶ島を通っていた参宮古道も松坂経由に変更された。
 これにより北畠(織田)信雄、蒲生氏郷と蒼々たる武将の居城であった松ヶ島城は廃城となり、松ヶ島はもとの一漁村に戻った。
 氏郷が開府してからは松阪で合戦は起きていない。松阪の戦国時代は幕を閉じた。

○現在の松ヶ島城
 現在遺構らしきものは残っていなく、畑の中に幅約20mの台地のみを残すだけであるが、地中からは金箔瓦などが出土する。後世の松ヶ島村の古図や検地帳には、天守跡、堀之内、丸之内、城之内、城之外、南之内、南の丸、日の丸などの城郭名や、殿町、本町、西町、紙屋町、ほうく町、鍛冶町などの町名が示されており、現在も丸の内、城の腰、殿町、本町などの地名が残る。

○所在地
   ・三重県松阪市松ヶ島町城の腰