8、伊勢街道(参宮街道)


 
○あらまし
 伊勢街道は参宮街道とも呼ばれ、四日市の日永の追分けで東海道から
別れ、伊勢湾沿いを伊勢神宮までの約18里(70q)の道。四日市から津、
松阪、斎宮を経て伊勢に向かう街道は幕府によって、脇街道として整備さ
れたもので、今でいう国道である。このうち松阪市内は昔、小野古江(おの
のふるえ)の渡しと呼ばれていた雲出川の渡しから、稲木町の祓川の渡し
付近までの道筋。この街道沿いには、今も多くの常夜灯や道標が残って
いる。

○伊勢街道の歴史
 
伊勢路は古代より都と伊勢神宮を結ぶ街道として開けてきた。都の所在
地や時代の推移とともに街道は変更や修正がなされてきた。そのうち伊勢
街道が大きく変わったのは、天正16年(1588)蒲生氏郷が四五百森に松
坂城を築いたとき、それまで海寄りを通っていた道を城下町に通したことで
ある。
 平安時代、鎌倉時代、そして室町時代の伊勢街道は小野古江の渡しで
雲出川を渡って現在の松阪市(旧三雲町)に入り、海よりの道をとり細汲
(ほそくみ・今の松ヶ崎、松ヶ島)、平尾(今の猟師)、大口、江津(今の郷

   小野江の渡しの常夜灯
津)と南下し、朝田、立入(たてり・今の立田)、立入清水(今の清水)より櫛田川を渡り、対岸の井口から斎宮へと進路をとっていた。これを氏郷は六軒より道路の進行方向を大きく内陸側に変更し、市場庄、久米、塚本、船江、を経て川井町、西町、本町、日野町、湊町と新しい城下町の中を貫通させ、垣鼻、豊原から櫛田川を渡り斎宮で旧道と連結させた。



○斎王の行列
 伊勢街道を通過した有名なものに斎王の行列がある。天皇の代理で伊勢
神宮に仕えた皇女・斎王の宮殿が明和町に置かれたのは7世紀末の飛鳥
時代である。以来、奈良、平安、鎌倉時代の14世紀まで約660年間に60
余人の斎王が都よりこの地に赴任した。
 雲出川では、船を何艘も横たえて上に板を渡した浮き橋が伊勢国司の手
でつくられた、これは斎王群行のときに限られた。市場庄地区に自然石で
かこまれた「忘れ井」という井戸 がある。平安時代の中ごろの長暦2年
(1038)9月、斎王 忘れ井に良子(ながこ)の行列が一志の頓宮から上ノ
庄の西、古代官道を通り、斎宮への道をたどった。この群行に随行した官
女・甲斐がこの忘れ井を通る際、遠く都を離れ、はるばる伊勢の地に来たと
いう望郷の念を詠んだ「別れゆく都の方の恋しきにいざ結びみむ忘井の水」
という歌が石碑に刻まれている。



         忘れ井


○おかげ参り
 江戸時代の参宮で最も特色があるのは「おかげ参り」である。慶長19年(1614)に大神宮が野上山に移り給うたという流言が流れ伊勢踊りなるものが流行し、寛永15年(1636)にも再び伊勢踊りが流行し、幕府の禁止令にも効果がなかった。慶安3年(1650)には、「伊勢のお札が降った」などの噂が発端となり、伊勢踊りと共通するところがあったおかげ参りが初めて起こった。その後おかげ参りは寶永2年(1705)、明和8年(1771)、文政13年(1830)とほぼ60年周期で行われ、慶應3年(1867)を最後になくなった。
 おかげ参りは老若男女の別なく、また職業や貧富を問わず行われ、文政13年には500万人もの人たちが熱狂的に伊勢を目指した。当時の日本の人口が約2700万〜3000万人であったのでいかに多くの人たちが伊勢参りをしたかがわかる。中には旅費も用意せずに出かけたものもあった。しかし道中の村々には篤志家がいて、無料で宿を貸すもの、食べ物を振る舞うもの、履物を提供するもの、足弱のものには駕籠や馬に無料で乗せるもの、旅費のないものには銭を恵むもの、その他いろいろの施行者がいて、参宮者は道中の苦痛や不安もなく旅ができ、参宮の目的を達して、郷里に帰ることができた。これらは大神宮の神恩のおかげ、またあたたかく迎えてくれる沿道の人たちのおかげでお参りを果たすことができたことなどから、「おかげ参り」ともいわれるようになった。




○松浦武四郎の生家

  幕末から明治維新にかけて活躍した探検家で、北海道の名付け親の
松浦武四郎は、文化15年(1818)伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市
小野江町)に生まれた。武四郎の生家は伊勢街道沿いにあり、家の前を
通って多くの人々が伊勢参りをした。特に武四郎13歳の文政13年には
阿波野国に端を発したお陰参りでは500万人もの人たちが熱狂的に伊勢
を目指した。
 これらの旅人の姿を見て諸国への思いを馳せたのか、若くして郷里をあ
とにして諸国遍歴の旅に出るのであった。
 この武四郎の生家は今も伊勢街道沿いにたたずんでいる。





     松浦武四郎の生家
 
 

○月本追分
 月本追分は現在の松阪市中林町の枝郷にあり、伊勢街道と奈良街道と
の分岐点である。現在の月本の道標は江戸時代後期に建てられたもの
で、東面に「月本おひわけ」、西面に「右さんぐうみち」、北面に「右いかご
江なら道」、南面に「左やまと七在所順道」と刻まれている。この道標は高
さ3.1mで参宮街道最大のものである。
 この追分には角屋、村田屋、錦屋などの立場茶屋や煮売屋があり、近く
には古くから月読社が勧請されており、月読社の本の集落という意味で「
月本」という名前が付いたと言われている。


 



        月本追分
         
 
○いがごえ追分

 六軒の三渡川の南側にあるいがごえ追分は、伊勢街道と初瀬(はせ)街
道の追分である。初瀬街道は伊勢と大和・京方面を結ぶ街道で、初瀬(長
谷)から名張、青山峠を越え、いがごえ追分で伊勢街道へ通じる。
 道標の銘文には「やまとめぐりかうや道」「右いせみち六件茶屋」「大和七
在所順道(やまとしちざいしょじゅんみち)」とある。大和七在所順道とは大
和国(奈良県)の七つの名所・寺社だけではなく、畿内の河内・和泉・摂津・
山城の名所・寺社を巡る道であった。

 三渡は川を渡るとき伊勢湾の潮の干満により通過地点が3ヶ所(上の渡、
中の渡、下の渡)あったためこの地名が付けられた。


 
     いがごえ追分
 

六軒茶屋
   ♪♪ 明日はおたちか お名残り惜しゆや 六軒茶屋まで送りませう
       六軒茶屋のまがりとで 紅葉のやうな手をついて 糸より細い聲を出し
       皆様さよなら御機嫌よろしう御静かに また来春も来ておくれ
       来春来るやら来ないやら 姉さん居るやら居ないやら
       これが別れの盃と 思へば涙が先にたつ 雨の十日も降ればよい ♪♪
 
 「道中伊勢音頭別れの歌」に出てくる六軒は、江戸時代「三渡新田」と呼ばれ、市場庄の枝郷であった。この三渡村には六軒茶屋と呼ばれた旅籠が十数軒並んでいた。
 



 ○市場庄のまちな
 市場庄には伊勢参宮の土産物や旅装束などを売る店が並んでおり、神
楽笛を売る笛屋、古着を売る古万、草履をうる草履屋、道中合羽を売るか
っぱ屋などの屋号の店が軒を連ねていた。このうちかっぱ屋では「やまと
めぐり道筋名所ゑず(絵図)」の案内図を合羽の内側に貼り付けて売って
いた。
 現在の市場庄には当時を偲ぶ古い町並み残っており、これらの屋号のほ
か、ふろ屋、ひょうたん屋、かご大、はこ屋、など50軒ほどの屋号が、それ
ぞれの家の軒先に掲げられている。



      市場庄の街並み


○松阪の本陣

 江戸時代の松阪にも公家や将軍家はもとより、大名たちが泊まる宿として本陣が置かれていた。その本陣が置かれていた場所が、中町の「美濃屋」という旅籠である。現在の松崎屋食堂の横から魚町に入っていく「美濃屋小路」という細い小路あり、その一画に美濃屋という本陣があった。 また本陣を補助するのが脇本陣という旅籠であったが、現在の快楽亭のあたりにあった「大和屋」がその脇本陣の旅籠である。
馬を置いている伝馬所は馬問屋とか問屋場(といやば)と呼ばれ、現在の鯛屋旅館の真向かいあたりに「船橋屋」という馬問屋があった。馬問屋の馬を飼育するために、今の本町あたりに博労町(ばくろちょう)という町があり、常時31頭の馬がいつでも出せるように準備されていた。

○伊勢街道沿いの地名の由来
 伊勢街道沿いの内、その町に住む人たちの出身地からとった地名が今も残っている。日野町は蒲生氏郷が天正16年(1588)に江州日野から商人を集住させてつくった町であり、湊町は度会郡大湊から角屋を中心に移ってきた人たちが住んだところである。また平生町は飯高郡平生(今の猟師町付近の平尾)から旅館を中心として移住してできた人たちの町である。
 鎌倉時代になると急を要する用が多くなり、「早馬」という足の早い馬が使われることが多くなってきた。早馬は「はやうま」あるいは「はやま」と呼ばれ、早馬が櫛田川の手前、瀬の手前で止まったために「早馬瀬」という地名が付けられた。
 
○所在地
松阪市小野江町(雲出川)〜松阪市稲木町(祓川)(松阪市内分)