7、和歌山街道


 
○あらまし
 和歌山街道は紀伊半島を高見峠越えにほぼ東西に縦断し、三重県松
阪市から奈良県五條市を経て、和歌山県京橋までの道のり、和歌山側では
大和街道とか伊勢街道とも呼ばれる。高見峠より三重県側を和歌山街道と
呼び、現在の国道166号の基となった道路である。
 三重県側の起点は松阪市日野町の交差点で「左さんぐう道、右わかやま
道」と道標が立っている。これより大石、横野、粥見、宮前、七日市、波瀬を
経由して高見峠にぬける。

○和歌山街道の歴史
 
和歌山街道は伊勢、大和、紀伊の3か国を通過して松阪と和歌山を結ぶ
道で、紀州藩の参勤交代のとき和歌山と江戸を往来するのに使われ、紀州
藩の公道として宿場や駅馬が整備された。
 この道は中世の南北朝時代には吉野と伊勢を結んだ道であり、これよりさ
らにさかのぼって古代・原始時代にも石器の材料の運搬にこの道は大きな
役割を果たしていた。粥見井尻遺跡で発見された矢じりの材料となる讃岐石
(サヌカイト)もこの道を通って運ばれたといわれている


     和歌山街道起点
○飯南町深野の「せったい」の地名
 
 現在の松阪市飯南町深野の大西地区の柿野小学校付近から稲荷神社の方に上がって行く道筋を、「せったい」と呼ぶ。ここは紀州候や年貢の徴収などのため廻ってくる上役に、お茶などに振る舞って接待したところからこの地名になり、今も残っている。



○和歌山別街道と舟戸の渡し
 
 和歌山別街道は紀州や大和から伊勢に向かう近道として利用されてきた道で、和歌山街道の粥見から旧勢和村、旧多気町を通り玉城町で伊勢本街道につながる。
 和歌山別街道は松阪市飯南町粥見地内の粥見追分(粥見神社近く)で和歌山街道と別れる。この追分けには「右さんぐう道、左まつさか道」と書かれた道標が立っている。まもなく櫛田川にあたる。
 櫛田川には舟戸の渡しがあり、両岸に張った綱で筏をたぐって往復する渡しであった。粥見追分から舟戸までの間には泉屋、角屋、長田屋、岡田屋、杉本屋、大和屋、辻村屋、鈴木甚四郎、広地勘右衛門など多くの宿屋が軒を並べ、平日でも50人から100人の参宮客がこの渡しを越えたと言う。川止めのときには対岸との連絡に弓が使われたことから、舟戸に「弓木」の姓が残ったといわれる。
 明治になって、船賃は無料となり、舟戸組が奉仕した。大正4年(1915)に桜橋ができるまでこの渡しは続いた。櫛田川を越えてからは、桜峠で現在の多気町に入り、丹生、長谷、仁田、野中を経て、玉城町の田丸に到達する。

○宮前の名前の由来
 
 現在の松阪市飯南町宮前の「宮前」は、もともと「滝野」という地名であっ
た。「宮」の付く地名の近くには神社があり、埼玉県大宮市は真清田神社
から、愛知県一宮市は氷川神社から地名がついた。この宮前にも花岡神
社があり、和歌山街道を行き交う旅人が「お宮さんの前で会おう」と滝野の
中心部にある花岡神社を集合場所としていたことから、いつのまにかこの
地が「宮前」という地名になったといわれている。
 宮前は和歌山街道の交通の要衝として栄え、江戸時代には宮前の宿と
して、本陣、代官所、金納所、伝馬町などの藩の施設が置かれ、旅籠、髪
結、籠屋などが建ち並び、宿場町として賑わった。
 宮前には江戸屋、角屋、青木屋、岡本屋、富士屋、泉屋、大阪屋など8
軒の旅籠があり、そのうち1番大きかった江戸屋は昭和の時代まで営業
がなされていて、今もその建物が残っている。  
 宮前から赤桶に抜ける道筋には、地元の歴史研究家・故 柳瀬才治氏ら
により街道にまつわる言い伝え等が立て札に示されている。


    宮前の旅籠江戸屋跡


○珍峠と礫石の伝説

珍 峠
 珍峠(めずらしとうげ)は宮前から赤桶に通じる街道の頂上に位置する宮前と赤桶の境である。普通車がやっと通れるくらいの幅に山がほぼ垂直に削りとられ、山肌がそのまま出ている素堀の道である。峠の近くの立て札には「珍布峠」という字が使ってある。白馬に乗ってここを通りかかった天照大神が「伊勢と大和の国境はどこか」とたずね、礫石伝説が生まれたところである。
礫 石
 宮前側から和歌山街道を通り、珍峠を越えて赤桶に入ると、街道から少し
それた櫛田川の中央付近に礫石(つぶていし)と呼ばれる石が河床から顔
を出している。この礫石には次のような国分け伝説が伝えられている。

 『昔むかし、天照大神が白馬に乗って旅をしていて珍峠にさしかかったと
き、「誰かこの地の国境を知るものはいないか」と尋ねた。すると水屋の森
から天児屋根命(あまのこやねのみこと)が現れ、「この下の堺ヶ瀬が伊勢
と大和の堺です」と答えた。ところが天照大神は「この堺は疑わしいと」言い
大石を川に投げ入れ、波の止まるところを国境と決めることになった。そし
てそばのあった大石を軽々と持ち上げ礫のように川に投げ込んだ。川水は
巨大な水柱となって滝のように流れ落ち、そこでその地を「滝野」名付けた。
また落下した水は勢いよく川上へと逆流していき、その波の様子からそれ
ぞれの地名を「加波(かば)」の里、「波瀬(はぜ)」の里、「舟戸(ふなと)」
の里と名付け、波の止まったところを「波留(はる)」名付けた。さらに波は
高見山に達し、天照大神はこの日より高見山を伊勢と大和の国境と決め
た。このことからこの石を礫石と呼ぶようになった。』

 礫石には別な言い伝えもあり、和歌山街道を行き来した旅人は子どもが
授かるように願いをかけ、この礫石に向かって小石を投げ、小石が礫石に
あたれば男の子が、はずれれば女の子が授かるといわれ、現在でも多く
の人が占いに訪れる。


         珍 峠


         礫 石


○波瀬の本陣

 和歌山県側から高見峠を越えて三重県側に入って最初の宿場町が波瀬である。歩くことが唯一の移動の手段であり、歩くことに慣れている当時の人々も、この高見越えは大変であったと思われる。旅人や、参勤交代の
 武士たちの波瀬の宿場に着いた時の安堵の様子が偲ばれる。
 波瀬には柳屋という屋号の本陣や、伝馬町が置かれ、油屋、小島屋、
大和屋、松屋などの旅籠が建ち並び、塩や魚、米などを扱う商いや巡
礼の宿泊地として賑わった。

波瀬の街並み

 波瀬の本陣・柳屋は伊勢国司北畠の重臣で織田側に寝返った日置
大膳を先祖とする中村家のもので、お白州、上段の間が設けられ、現
存するものとしては三重県内でも大変貴重なものである。
 国道166号から離れ、和歌山街道からも道1つはずれていることもあ
り、昔の宿場町の雰囲気にひたることができる。


        波瀬の町並み


○紀州藩の参勤交代


 参勤交代は毎年夏4月となっており、定められた街道を通り、原則として他の街道を通ることは禁じられていた。また本陣への到着時刻や出発時刻も規制されていた。
 行列の先頭には「したぁにー、したぁにー」と奴が通行人を土下座させたあとを、髭奴(ひげやっこ)、金紋先箱(きんもんさきばこ)、槍持、徒士(かち)などの先駆が続き、大名の駕籠の周りには、馬廻、近習、刀番、簾番、六尺などが固め、そのあとを草履取、傘持、茶坊主、茶弁当、挽馬(ひきうま)、騎馬の士、槍持、合羽籠、などの後徒が続く。その数は多い場合は数千人、少ない場合でも百名を下ることはなかった。

 和歌山街道を参勤交代の公道として使った紀州藩は徳川御三家の1つで、その面子にかけても行列は豪華絢爛であったと思われる。多くの武士団や武具、諸道具など本陣、脇本陣だけでは収容しきれそうもなく、どのようにして割り振ったのか、当時の行列を手配した人たちの苦労が偲ばれる。
 警備や橋梁・道路の補修、道路の清掃などに街道沿いの領民をはじめ、近隣の村々の領民まで狩り出され、高見峠まで竹箒で掃き清めたという話も伝わっている。領民たちにとっても何日間もかりだされる参勤交代への対応は大変辛いものであった。
 紀州藩の初代藩主徳川頼宣(家康の十男)が駿府から和歌山に入ったのが元和5年(1619)、翌元和6年に初めての参勤交代が始まった。和歌山と江戸を結ぶ最短距離がこの和歌山街道であった。しかし和歌山街道の高見峠越えは大変な難所であり、経費も多くかかったが、自分の領地を通って藩の威光を示すということもあって六代藩主宗直まで110年間はこの街道を通って参勤交代が行われた。
 
 しかし藩の財政事情が苦しくなり、また行列の人数が増えるにしたがい宿場や人足が対応しきれなくなってきたため、宗直以後は東海道、美濃路、東山道を使うことになり、寛保4年(1744)を最後に和歌山街道は使われなくなった。和歌山街道を使うと江戸まで13日で到達できたが、東海道経由では16日かかったということである。

 

○現在の和歌山街道

 国道166号は昭和59年3月に新しく高見トンネルが開通し、交通の
中心は新道に移つり、旧街道を通行する車はほとんどなくなった。高
見峠には街道マニアやハイカーが訪れるくらいで、かっての交通の要
衝は静かなよそおいを示している。
 この高見峠には高見山への登山道の入口があり、また駐車場の一角
には江戸時代の国学者本居宣長の歌碑が建っている。本居宣長は寛
政6年(1794)10月11日に高見山を越えて東吉野村に入った時詠ん
だ歌 「白雲に峯はかくれて高見山見えぬもみちの色ぞゆかしき」。
 宣長は63歳の時、紀州徳川家より藩主に国学を講じるために召し抱
えられ、初めて紀州に出府したときの作である。生涯をかけて国学を紀
州家に普及できる喜びと感謝に満ちあふれた旅であった。
 

       本居宣長の歌碑