5,白米城(阿坂城)


 
○あらまし
 白米城は松阪市大阿坂町の標高310mの山の頂上に築かれた北畠の山
城で、もとの名前は阿坂城。この城に伝わる白米伝説から白米城と呼ばれて
いる。全国に100ヶ所くらいある白米城伝説であるが、この阿坂城が発祥の
地であるといわれている。

○白米城の築城
 白米城の築城に関する資料はないが、『大日本史料』の「鷲見(すみ)家譜」
の鷲見加々丸中務少輔の文和5年(1352)1月23日付軍忠状に記されてお
り、文献上の城の初登場である。したがってこの頃までに築城されていたこと
になる。

        白米城跡
○城の構造
 
城は南北300m、東西150mの領域を持ち、南北2つの郭からなる。南郭を白米城、北郭を椎之木(しいのき)城とも呼ばれており、台状地を中心として、堀切り、土塁等が配されてる。椎之木城跡は幅40m〜70m、長さ150mと大きく、こちらが城の中心だったと思われる。
 阿坂城の近くにある高(たか)城、枳(からたち)城は阿坂城の出城と思われている。




○足利幕府軍との戦いと白米伝説

 南北朝時代の日本には朝廷(天皇)が二人いる異常な状態が60年続いたが、阿坂城の北畠は南朝側の武将であった。応永22年(1415)足利幕府軍が3万の兵を率いて阿坂城に迫った。迎え撃つ北畠軍は2千。連日の激しい攻撃にも城はびくともしなかった。城は山の中にあり、その頂上に殿守館があった。三万の兵で二千の兵の城を落せね足利軍に焦りのいろが見え始めた。正攻法で攻めあぐんだ足利軍は水を絶つ兵糧責めに転じた。その地形ゆえ武力による攻撃に対して強さを発揮した阿坂城も兵糧攻めには脆さを露呈した。

 城の中では飲み水さえ不自由となり、落城の日が刻一刻近づいてきた。
城を取りまく足利軍にも城内の窮状は察せられた。そのとき足利軍は信じ
られない光景を目にした。こともあろうに北畠の兵が馬に水をかけ洗ってい
るのである。「城の水は枯れていなかった」疲れきっていた足利軍の三万
の兵にはそう見えたのである。しかし現実には城の中には水は全くなかっ
た。北畠の石見守重満が霧の日を選んで、黒い馬の背に白米をかけ洗っ
てみせたのである。馬の背から流れる白米が足利軍にはあたかも水がし
たたり落ちるように見えたのであった。このことから足利軍は兵糧攻めを
あきらめ、城の囲みを解き、退陣を余儀なくされ、この故事によりこの城を
白米城と呼ぶようになったと、近世初期の史書『南方伝記』や『勢州軍記』
に示されているしかし同時代の幕府軍の中枢の人が書いた『満済准后日
記』では、幕府軍が人的被害をほとんど被らず勝利したとあり、史書により
異なる結果をしめしている。

       椎之木城跡



○織田軍木下藤吉郎との戦い

 足利軍が阿坂城に攻め込んでから150年後の永禄11年(1569)、織田信長は5万の兵を率いて北畠の本城大河内城に迫った。この時北畠軍の北を固めていたのが阿坂城である。信長は北畠のいくつかある出城に対して和睦に応じるようせまった。城によっては和睦に応じる動きを見せるところもでてきた。このような中で阿坂城は「和睦など思いもよらぬこと。命の限り戦う」と返事したことで信長が立腹。
1569年8月22日織田軍の先陣として木下藤吉郎が阿坂城を攻撃した。数百の軍勢で城を守るのは北畠の家臣大宮含仁斉・大之丞親子。藤吉郎は軍に先頭に立ち、雨のように降りそそぐ矢をかいくぐり前進した。この時北畠の家臣のなかでも弓の名手として名高い大宮大之丞の放った矢が藤吉郎の太ももにあたった。藤吉郎は天下人になるまでに60以上の戦いをしたが、戦いでけがをしたのは唯一この阿坂城の戦いであった。
阿坂城は見方の寝返りで鉄砲の火薬が水びたしになり、大宮親子も城を明け渡すことになった。足利軍三万の軍勢にも落ちなかった難攻不落の阿坂城も、味方の裏切りにより織田軍に落城したのであった。



○現在の白米城

 現在の白米城ははハイキングや遠足のコースとなっている。白米城への登り口は3ヶ所あるが、大阿坂淨眼寺の近くからのコースは比較的緩やかなハイキングコースで、足の速さにもよるが50分〜1時間20分程度で頂上に達する。城跡の上の石碑には白米城の歴史が刻まれている。

○所在地
   ・三重県松阪市大阿坂町枡形・椎の木谷・井戸谷