4,大河内城跡


 
○あらまし
 大河内城跡は松阪市大河内町の阪内川と矢津川に挟まれた丘陵地の先
端部にある。城は応永年間に伊勢国司北畠満雅により築城され、満雅の弟
顕雅(あきまさ)が入城した。

○大河内城の築城
 南北朝時代の1420年頃(応永年間頃)南朝側の小倉宮良親王の意によ
り伊勢国司の北畠三代目満雅が北朝の足利幕府を見すえ、南朝側の挙兵
の拠点に築城し、弟の顕雅(あきまさ)を城主として住まわせた。
 戦国時代には北畠三大将の居城で大河内御所と呼ばれていた。兵力は馬
上の侍百騎を含む600人とそれに足軽、雑兵が400人合わせて1000人で
あった。

      大河内城跡本丸跡
○城の構造
 城の南側と北側は深い谷が巡っており、自然の要塞を呈している。城の縄張りは本丸を中心とし、北を大手口、南を搦手口とし、西に西ノ丸、東に二ノ丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切りや台状地が残る。



○織田信長軍の来襲

 織田信長は永禄12年(1569)5万の兵をもって北伊勢の城を傘下に収めながら南下し、8月に大河内城の北畠具教(とものり)軍に迫った。信長来襲の備え精鋭を集めた迎え打つ北畠軍は1万6千、それも8つの城に分散しており、兵の数では圧倒的に不利であった。
 大河内に入った織田軍は火を放って町々を焼き払い、桂瀬山に本陣を構えた。この軍勢の中に後の歴史に名を残す柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、稲葉一徹、池田信輝、前田利家、佐久間信盛、佐々成政たちがいた。そして後の松阪城主となる14才の蒲生氏郷がこのとき初陣を飾っていた。また後の豊臣秀吉の木下藤吉郎は白米城(阿坂城)を攻めていた。

○広坂口の戦い
 大河内城を包囲した織田軍は、まず城の正面の広坂口から攻撃を開始した。北畠軍は一団となって応戦し、逆に信長の本陣に攻め入った。この時織田側は隠れていた信長自慢の鉄砲隊、長槍隊で応戦すると、武者ぞろいの北畠勢も犠牲者が増すばかりで攻撃を一旦中止せざるをえなった。また織田側も敵が強敵であることから、戦略を練り直さなくなり、この戦いは長引くことになった。

○まむし谷の攻防
 大河内城の搦手(裏側)にまむし谷と呼ばれる城の中に入りくんだ谷があ
る。城攻めをする側にとってはこの袋小路のような地形から攻め込むことは
左右と前方から攻撃をうけることから大変不利な地形である。
 城攻めに手こずっていた織田の陣所に10月になると滝川一益が到着し、
一益はあえてこのまむし谷からの攻撃を信長に進言した。当初地形的に不
利という理由から反対していた信長も、一益の「命にかえても」という力説に
まむし谷からの攻撃を認めることとなった。一益軍3千はまむし谷から総攻
撃をかけた。城を守る側は「城が危ない」と本丸の女子・子供にいたるまで
必死で泣きさけびながら応戦した。城からは鉄砲や矢ばかりではなく、竹
槍、石、木材等まで投げられ、滝川一益軍は討たれたり、谷底に落下したり
して総崩れとなった。また開門して出てきた北畠三勇士の服部孫三郎、潮田
長助(おさすけ)、船木左馬助などの縦横無尽の活躍もあり、一益軍は壊滅
し、撤退を余儀なくされた。戦いのあと倒れた兵士から流れ出た血が川のよう
に流れたといわれている。この戦いは後に「まむし谷の血決戦」と呼ばれてい
る。

       まむし谷の石碑
○戦の終結
 破竹の勢いで伊勢を南下してきた信長軍であったが、大河内城攻めでは北畠軍の頑丈な防戦にあい城は陥落する気配はなかった。信長はついに謀略をつかうことにし、城内の北畠の武士に内応を取り付けようとしたが、応じたのは野呂左近将監ただ一人で、その野呂も城中で切り捨てられ、内応作戦は失敗した。
 いらだちを募らせる信長は家来を本陣の大木に登らせ、具教の子具房に対し「大腹御所(具房)の餅食い」など罵倒を浴びせかけた。これに激怒した北畠側では、北畠の重臣秋山右近の家来で弓の名手の諸木野弥三郎が敵味方の見守る中放った矢が、4〜5町(約500m)先にいる木の上の織田の家来のからだを射抜いた。信長はこれに大いに驚き、また感激して諸木野の放った矢を引出物とともに城中に返したといわれている。      
 この罵倒作戦は信長のひとつの賭であり、この出来事によりこれ以上のこの城攻めは無理だと判断し、和睦に持ち込んだといわれている。織田軍と北畠具教軍との激しい戦闘は50日に及ぶが、北畠軍は8千の兵で織田軍の猛攻に耐え、さすがの信長も城攻めをあきらめざるを得なかった。 この一大攻防の結果、大河内城は難攻不落の堅城と絶賛された。



○織田との和睦

 武力による大河内城の攻略が無理と知った信長は北畠側に和睦を提示し、13才の次男信雄(のぶかつ)(幼名茶筅丸)を養子として北畠側に差し出すことになり、北畠具教の五女千代前(雪姫)と結婚させた。北畠側からみれば信雄は人質の形となるはずであったが、信雄とともに信長側近の足助十郎兵衛、天野佐左衛門尉、林豊後守、小崎新四郎、安井将監その他屈強な武将も送り込まれ、北畠側は信雄に対して指一本触れることができなかった。
 
○大河内城の解体と北畠の滅亡
 大河内城の戦いにおいて、信長の大軍に一歩も引けをとらなかった北畠氏も、信長の謀略に対抗する実力は全く無かった。大河内城に入った織田側により北畠潰し、そして織田による北畠の領土支配が着実に進んでいった。
 信長は北畠の諸城を破却するように命令した。そして天正3年(1575)には北畠の主城であった大河内城の城郭を壊して田丸城に移して建て、新装の田丸城には信雄が入った。これにより150年続いた大河内城は終焉を迎えたのである。

 多気郡大台町(旧)の三瀬の館に移り、大御所と呼ばれていた具教は、北畠の土地や支配権が織田側に移ることを残念に思い、ひそかに甲斐の武田信玄と通じていた。これを知った信長は怒り北畠一族を滅ぼす暴挙にでた。また信雄の小姓が北畠方の屋敷で小鳥を取 ろうとして見つかり、打ち叩かれたことを信長に告げされ、信長は北畠一族の殺害を命じた。
 天正4年(1576)11月25日、信長の働きかけで織田に寝返った北畠の旧臣の長野左京進と藤方刑部の家臣の加留左京が三瀬館を訪れ、具教に面会したが、対面中突然槍で突きかかった。具教は武道の達人、とっさに槍を避け太刀を抜こうとしたが、織田に寝返った家臣により太刀がさやから抜けないように細工がしてあった。具教は三歳の徳松丸と一歳の亀松丸の子とともに殺害をされたのである。時に具教49才であった。
 この日、田丸城下にいた北畠13人衆も全て殺害され、夫人幼児家人までこの時殺害された。また具教の娘で信雄の妻である千代御前まで殺害され、一人残った具房も天正8年(15800年)1月に死去し、これにより村上天皇の流れをくむ名門伊勢北畠一族は滅亡した。本能寺の変で織田信長が亡くなる7年前のことである。



○現在の大河内城

 現在の大河内城跡は静かな木立の中に昔の面影を偲ばせている。本丸跡、西ノ丸跡、馬場跡などを示す石柱が立てられて城の構造がわかる。また激戦が行われたまむし谷は木が茂っており、全体的な地形はわからないが、城を守る北畠軍と本丸に迫ってくる織田軍との戦いの喧噪を偲ぶことができる。城跡は地元老人会などが清掃作業をされており、バスで来る団体の見学者もある。

○所在地
  ・松阪市大河内町城山・マムシ谷他




 



          西ノ丸