2,御城番屋敷

○あらまし

  御城番屋敷は松阪城跡の南東側に位置し、城の裏門と搦
手門(竹御門)を結ぶ道路の両側に位置する。松阪城の警護
にあたった40石取りの紀州藩士20人とその家族が住んでい
た屋敷である。
 ここを訪れる人たちの中には「ここは足軽長屋や」とか「下
級武士の住まいや」と勘違いする人も少なくないが、れっきと
した紀州藩直属の誇り高き武士たちの屋敷である。

松阪城跡から見た御城番屋敷

○御城番屋敷の歴史

  文久3年(1963年)に曲輪内の畑地へ両側二十軒の長屋
をたて、藩士20人が松阪に来住した祭に新築されたもので、
主屋2棟と前庭、畑地、土蔵、南龍神社からなり、約1ヘクタ
ールの敷地の周囲には槇垣をめぐらしています。土蔵はか
って松阪城内隠居丸にあったものを移築したといわれており、
南龍神社には紀州藩祖徳川頼宣を祀る。
 1戸あたり、正面5間、奥行5間裏に幅1間の角屋(つのや)
が付く広さをもち、右手に通り土間、左手に田の字型に8畳2
間、6畳2間を配し式台を構える。


紀州藩祖徳川頼宣を祀る南龍神社


○御城番武士


  御城番武士の祖先は徳川家康の先鋒隊として功名をたてた横須賀党の武士で、長篠の戦い天目山の戦い、小牧長久手の戦いなどで大手柄をたて、家康から感謝状とご朱印を賜った。これがこの一族の誇りと結束になっている。家康の十男頼宣が御三家の1つとして紀州に転封するとき家臣として紀州に遣わされた。紀州藩では直属の家臣として田辺城詰に配属され「田辺与力」と呼ばれた。ところが安政2年(1855)になると田辺城代家老の安藤飛騨守が和歌山藩直属でなく、安藤家の家臣であると通告してきた。彼らはそれに納得せず、我々は頼宣公以来紀州藩直属の家臣で安藤家の家臣でないと哀訴してきたが受け入れられず、彼ら一同は藩に暇(いとま)を願い出て、妻子とともに田辺を離れ放浪の身となった。
  数々の辛苦に耐えながら藩主の直臣であるとういことを訴えてきた。6年7ヶ月後、紀州徳川家の菩提寺である長保寺の海弁大僧正の働きかけもあり、文久3年(1863)4月に全員が紀州藩に召還されることになった。明治維新の5年前のことであった。
  明治維新で家禄を新政府に奉還し、士籍を去ったが御城番武士の繁栄を考え、資産の散逸を防ぐため明治11年「苗秀社」を設立し「子孫に残せ」の遺言を守り現在に至っている。毎年1月10日には頼宣公を偲ぶ「南龍まつり」が、また8月20日には紀州藩への帰参に尽力してくれた海弁和尚のお祭りも行われている。松阪市の初代市長小出三郎は、苗秀社結成に加わった小出義之の息子である。



○現在の御城番屋敷

  御城番屋敷のような組み長屋の現存例は全国的にも珍しく
山口県萩市などに例があるのみで、現存例の中でも最大規模
で、住居として質的に最も充実している。
  また主屋以外に前庭、畑など垣で取り囲まれた敷地全体が
よく残り、建築年代や由緒が明確であることも相まって貴重な
武士の組屋敷である。この建物は釘を使わず、最低の材料で
丈夫な構造に作られている。また耐震性を考え、一戸建てより
強い長屋になっており、建物の敷石はきちっと置かずに緩衝す
るようになっている。

 当時20戸あったが、明治35年松阪工業高校創立時に、主
屋西棟の北端2戸が仮教室として
使用された後、1戸が切り詰められて現在は東棟10戸、西棟
9戸である。

御城番屋敷の石畳
  当時20戸あったが、明治35年松阪工業高校創立時に、主屋西棟の北端2戸が仮教室として使用
された後、1戸が切り詰められて現在は東棟10戸、西棟9戸である。
  松阪市は平成元年度ふるさと創生資金を用い、同屋敷の景観整備事業を行い、電柱を主屋の裏に
移設し、主屋上のテレビアンテナを撤去し、共同化した。また舗装されていた道路は石敷きに改められ
た。また屋敷を見学に訪れる人たちのために西棟北端の1戸を借り受け、復元整備した上で平成2年
4月より一般公開している。
 公開住宅の開館時間午前10時〜午後4時、休館日月曜日・年末年始、入場料無料

○所在地
   ・三重県松阪市殿町1385ほか