10、神山城跡
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○あらまし
神山城は飯野郡(現 松阪市中万町)の櫛田川左岸にある神山山頂に南北朝時代の初めに築かれた山城である。南北朝とは日本に朝廷(天皇)が2人いる異常な状態で、1336年(南朝歴延元元年/北朝歴建武3年)から1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまで56年間続いた。神山城はこのとき南朝側の軍事的拠点として築城された。
○神山城の築城
南北朝の対立が始まると北畠氏は伊勢の国司を任ぜられ、南伊勢を支配する。南朝方は軍事的拠点として玉城に田丸城を築き、田丸城を中心とし、多気町の近長谷寺近くに近津長谷城、宮川左岸に岩出城、度会町に一之瀬城を築いた。これらの城とともに神山城はこの時南朝方の城として、1337(延元2年/建武4年)潮田行部左衛門尉幹景により築城されたとしている。
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草木が茂る神山城跡 |
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○神山城の構造
神山城は標高130mの神山の山頂に築かれている。東西150m、南北120mの城域を有し、東西の2つの台状地からなる。楕円状を呈する西側の台状地は40m×45mの楕円状を呈し、方形状の東側の台状地は20m×25mの方形を呈しており、両台状地の間に堀切、土塁などが配されている。西側の台状地が主郭部と思われる。
○神山城の戦い
1338年(延元3年)北畠親房の命を受けた潮田幹景が南朝軍を率いて神山城に籠城した。翌1339年(延元4年)南伊勢において、南朝側のこれらの城を潰そうとする北朝側に対し、城を守ろうとする南朝側の間で激しい戦いが繰り広げられた。
この年神山城においても南北朝の攻防が繰り広げられ、8月28日より9月10日まで北朝側の高師秋(こうのもろあき)の軍勢が城を包囲した。一方南朝側は城主潮田幹景のほか加藤十郎左衛門尉定有らが城を死守し、時には城外に討って出て戦った。
このような何度かの激戦の末、1343年(興国4年)北朝側から伊勢守護に任じられた仁木義長らが加わった攻撃によって、田丸城などの城とともに落城した。神山城にはその後仁木義長が入城した。
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○神山一乗寺
この神山城への道筋に天台宗延暦寺派の神山一乗寺がある。当寺は聖徳太子の草創といわれ、聖徳太子が伊勢神宮に参拝の際に自ら6尺1寸の薬師如来座像を刻み、お堂を建てたのが始まりとされている。
一乗寺は神山城の戦いのおり、仁木義長により仏殿等が焼かれたので、文明2年(1470)北畠具教により再建された。文化13年(1816)再び火災が起き、本尊、仏殿とも焼失し、天保7年(1836)年に再建された。
この神山一乗寺に伊勢国司北畠から3枚の神山寺山林 神山一乗寺保護の制札が出されており、1つは延徳2年(1490)4代北畠教具のもの、2つ目は明応5年(1496)5代北畠政具のもの、3つ目は天文2年(1533)7代北畠晴具のものである。内容は軍勢による濫妨狼藉、陣取寄宿、矢銭兵粮米の徴発、竹木の伐採などを禁止し、戦乱に苦しむ民心の安定や、神社仏閣の保護を目的としている。これらは北畠家と一乗寺の密接な関係を伺うことができる。
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神山一乗寺
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○現在の神山城
一乗寺までは道が整備されている。一乗寺の西側の奥に仁木義久の墓があり、それより奥の道は草木が茂っている。神山城跡の城郭付近も木が茂っており、城の輪郭をつかむことはできないが、山の中に立つと南北朝の軍勢の戦いの喧噪を偲ぶことができる。
○所在地
・三重県松阪市中万町川の上
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