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○あらまし
松坂城は安土桃山時代の戦国武将蒲生氏郷(がもううじさと)が、標高35mの四五百森(よいほのもり)に築城した平山城で、南北835m、東西570mの広さをもった城である。現在は松坂城跡として松阪市の市街地の西側に位置し、松阪市の名所旧跡の中でもシンボル的存在である。 ○松坂城の築城と歴代城主 松坂城は天正12年(1584)豊臣秀吉により松ヶ島城を拝した蒲生氏郷が、天正16年(1588)飯高郡矢川庄四五百森の丘陵地に築城した。このとき松ヶ島の城郭が取り払われ、農漁民を除く町民が松坂に強制的に移住させられた。また参宮古道も松坂経由に変更された。 城の築城間もない天正18年(1590)蒲生氏郷は小田原合戦の功により、42万石の太守として奥州会津を拝領された。翌年服部一忠が3万5千石を領して松坂城主となるが、関白秀次事件に連座して改易となり自害した。その後文禄4年(1595)古田重勝が入封する。重勝は関ヶ原の戦いの際に関東から急ぎ帰城し、鍋島勝茂率いる西軍と対峙し松坂城を守とともに、津城にも援軍を出した。この功により二万石の加増を受け、五万五千石の大名になった。慶長11年(1606)重勝が47歳で亡くなると、弟の古田重治が城主となり、実際に松坂城を完成させたのは三代目城主古田重勝であった。元和5年(1619)古田氏は大阪夏の陣の功により岩見国浜田に移封となった。元和5年(1619)8月、松坂は徳川和歌山藩(紀州藩)の直轄地となり、以後松坂城には松坂御城代が置かれた。 ○城の構造 城は四五百森と呼ばれた標高35余mの独立丘陵に建てられた平山城で、北東側を大手、南東側を搦手(竹御)とし、本丸、二の丸、三の丸、きたい丸、隠居丸といった郭より構成されていた。本丸、二の丸、きたい丸、隠居丸には高い石垣を築き、三の丸の周囲には土居と水堀が巡っていた。天守(閣)は城のやや西側にあり、三層の天守を取り巻くくように敵見、金の間、月見等の櫓が配置されていた。 松坂城が名城100選に選ばれた選定理由の1つに「縄張り(設計)」がすぐれていることがあげられている。 ○松坂城の瓦 松坂城の瓦は、「唐人一観」と言われる中国から招いた瓦技術者の指導で焼いた安土城と同じものが使われている。氏郷は前任地の松ヶ島城で使っていたものも再利用しており、発掘調査の結果、膨大な瓦の中に「天正七年」と刻んだ軒平瓦があり、年代から松ヶ島城で使われていたものと考えられる。 そのほか松ヶ島城で出土した金箔瓦が松坂城跡からも出土している。 金箔瓦が発見される城跡は全国的にも少なく、安土城、岐阜城、清洲城、松ヶ島城、神戸城で信長とその息子たちの城郭であり、松坂城の金箔瓦も松ヶ島城から運ばれたものに混じっていたものと思われる。
移住させた。松阪の市街地には、昭和の時代に道路整備が行われるまで、城下町特有ののこぎり状の軒先 が連なっていた。 ○松坂城天守閣の倒壊 松坂城の天守閣は完成して57年後の正保元年(1644年)7月29日(旧暦)の大風で倒壊して土台だけに なった。寛政6年(1794)には二の丸に徳川陣屋が建てられているが、明治10年の失火で消失した。また 残っていた他の表門、裏門、中門、土蔵等は明治14年までに取り壊され、現在城内には当時の建物は残っ ていない。ただ当時隠居丸にあった米蔵のみが現在も御城番屋敷近くに移転され残っている。 ○「松坂」の由来 蒲生氏郷は天正16年8月にこの城に入城し、この町を「松坂」と命名した。「松」は「松ヶ島に在城ありしより 一段と仕合わせ能く兎角我には松の字吉相なり」(氏郷記)の「松」であり、「坂」は秀吉の新しい城下町の「大 坂」の「坂」を秀吉のゆるしを得て用いた。 「松坂」から「松阪」への変更は明治22年の市制、町村制の施行によって行われた。
を偲ぶことができる城であること。 B時代・地域の代表−城は弥生時代に誕生し、古代・中世と変遷をとげ、織田・豊臣時代に日本独自の 美しい近世城郭を完成させ、幕末に終焉した。これらの時代の城郭発達史と地域的特色を代表する 城であること。 松坂城の名城100選の選定理由は @縄張り(設計)がすぐれている A石垣は日本でも有数のものである、 B蒲生氏郷が造った城である C城の近くにある御城番屋敷がすばらしいなどである。
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